エイブラハム・リンカーン
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エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。しばしばエイブ (abe) の愛称で呼ばれ、オネスト・エイブ (Honest Abe)、レール・スプリッター (the Rail Splitter)、偉大な解放者(the Great Emancipator)、奴隷解放の父と呼ばれた。
リンカーンは奴隷制の拡張に反対し、彼の大統領就任はアメリカ合衆国を二分し、南北戦争に結びついた。戦争中に彼はアメリカ史上その前任大統領に比べ最も多くの権力を手にした。リンカーンはその非常大権によって封鎖を宣言し、人身保護令状を保留し、議会の認可無く支出を行い、個人的に戦争を指揮し、それは北部連邦を南部連合に対する勝利へ導いた。
生い立ち
エイブラハム・リンカーンはケンタッキー州ハーディン郡の農場(ホーゲンヴィルの町の3マイル南、ノーリン・クリーク、現在はラルー株式会社)で、1809年2月12日にトーマス・リンカーンおよびナンシー・ハンクス夫妻の息子として生まれた。彼の誕生日はチャールズ・ダーウィンと同じ日である。彼はインディアンに殺害された祖父のエイブラハム・リンカーンにちなんで命名された。
両親は無学な農民で、彼が7歳の時に一家は貧困と奴隷制度のためにインディアナ州スペンサー郡へ転居し、その後1830年に経済的困難と土地問題で一家は政府の入植政策に従い、父親が選んだサンガモン川沿いのイリノイ州メイコン郡(現在のディケーター付近)に転居した。その年の冬は厳しい寒さで、一家はインディアナ州に戻ることとなる。1831年父親は転居を決めるが、22歳のリンカーンは独りでサンガモン川をカヌーで下り、イリノイ州サンガモン郡(現在のメナード郡)ニュー・セーレムへ移り住んだ。
同年デントン・オファッツ・ゼネラル・ストア(雑貨屋)でジャック・アームストロングとレスリングの賞金試合(創世期のプロレス)を行なうも引き分けたという。1831年末に彼はニュー・セーレムの実業家デントン・オフットに雇われ友人と共に平底船に乗ってニュー・セーレムからニュー・オーリンズへサンガモン川からミシシッピ川を下り品物を運搬した。ニュー・オーリンズ滞在中に彼は自身の生涯に大きな影響を与えることとなる奴隷売買を目撃しているかもしれない。1832年4月11日の地方新聞(イリノイ州ビアーズタウン)にレスリングの試合でロレンゾ・ダウ・トンプソンがエイブラハム・リンカーンを2-0で破ったという記事がでた。
イリノイ州議員
1832年、イリノイ州とネイティヴ・アメリカンのソーク族との間で、ブラック・ホーク戦争が始まり、義勇兵として参加した。同年、州議会にホイッグ党から立候補するが落選。
1834年、ホィッグ・民主党の連立候補としてイリノイ州下院議員に初当選。これにより、イリノイ州軍の大尉となりニュー・セーレムの連隊を率いた。結果、イリノイ州の圧倒的な勝利となり、ブラックホーク率いるソーク族は全滅に近い被害を出した。
その後彼は幾つかの職業と政治経歴を積んだがいずれも失敗し、ウィリアム・ブラックストーンの『イギリス法注釈』第二巻に出会った後法律を学び、1837年にイリノイ州法曹界入りした。同年彼はスプリングフィールドに転居し、ステイーブン・T・ローガンと共に法律事務所を開く。その後彼はウィリアム・H・ハーンドンと組み、イリノイ州で評判高く成功した弁護士の一人となった。彼は1834年にサンガモン郡選出のイリノイ州議会議員となり連続四期選出された。1837年にはイリノイ州議会で奴隷制に対する最初の抗議を行っている。
政治経歴
1846年にリンカーンはホイッグ党員として下院議員に選出された。信頼されるべきホイッグ党員として彼はしばしば党首のヘンリー・クレーを賞賛した。下院議員として多くの時間を彼はワシントンD.C.で独りで過ごし、また政治家仲間にめざましい印象を与えた。彼は米墨戦争の原因がジェームズ・ポーク大統領の「軍事的栄光 - 血の雨の後に出来る魅力的な虹」への野望にあるとして反戦の演説を行い、ホイッグ党の大統領候補指名選挙ではザカリー・テイラーを支援した。
下院の任期が終了したとき、来るテイラー政権はリンカーンにオレゴン準州の総裁の職を用意した。彼はそれを断りスプリングフィールドに戻って、活動的なホイッグ党員のままではあったがその精力のほとんどを弁護士の活動に向けた。
弁護士職
リンカーンは、はしけ船や鉄道といった運輸関係訴訟への関与で1850年代中頃までにイリノイ州において弁護士としての有能さを認められるようになった。
彼は1851年にアルトン・アンド・サンガモン鉄道の株主、ジェームズ・A・バレットを訴えた。バレットはアルトン・アンド・サンガモン鉄道が計画した路線を変更したという理由で企業に対し差引勘定の支払いを拒絶した。
リンカーンは、法律問題として公益の為であれば企業は契約書に拘束されないと主張した。新しく提案されたアルトン・アンド・サンガモン鉄道の路線は以前の路線に比べ利便性に勝り、変更のための費用もそれほどかからなかった。従ってアルトン・アンド・サンガモン鉄道には逆に支払いの遅延でバレットを訴える権利があった。リンカーンはこの訴訟に勝利し、イリノイ州最高裁判所による判決はアメリカ国内の他の法廷で引用されることとなった。
また、もう一件の鉄道弁護士としての成果は州がイリノイ・セントラル鉄道に許可した免税に関する訴訟であった。マクリーン郡は、州にはそのような免除を与える権限がないと主張し、鉄道会社への課税の権利を主張した。1856年1月にイリノイ州最高裁判所は、リンカーンの申し立てを受理して免税が妥当であるとする見解を示した。
弁護士としての彼は非常に精力的で、寝る間を惜しんで働いていたことから周囲から「正直者エイブ」「働き者エイブ」と親しまれていた。しかし実は妻がヒステリー持ちでしばしばリンカーンに当り散らすため、家にあまりいたくないからオフィスで働いていたという。